常陸大宮移住仲間紹介~環の花・宮永さん~


常陸大宮市北西部に位置する旧美和村、温泉「ささの湯」の近くで平飼い養鶏を営む「環の花」宮永憲治さん。

筆者が知る限りにおいて、当市で農業で移住したメンバーで最年長、そしてかなりな古参メンバーだ。「平飼い」、通常の日光も自然の光も入らない鶏舎で身動きが取れないケージで効率重視でエサを与えて採卵する養鶏法とは真逆で、広さのある鶏舎で自由に走り、地面を掘り、飛び上がっている。エサも出来るだけ国産にこだわり、ヌカ・小麦・大豆は100%国産の餌を使用する。黄身が赤くなるようにパプリカを配合するエサが主流になる中、自然な黄味の色はむしろ頼りなく感じるくらいだが、味わいは非常に良い。臭みが全くなく、優しい味わいの中にコクがある。卵の直接販売だけでなく、卵を加工したプリンも売れ行き好調だ。そんな宮永憲治さんの移住・起業にスポットを当ててみたい。

ひたすら独立を目指して挑戦した20~30代

 

「とにかく組織の中で働くのが苦痛だった」と語る宮永さん。組織で働くと、仕事の計画・ペースは自分で決められない。また自分のやりたいことが通るわけではなく、力のある人間の意見が通る。多くの人の間で、色々なバランスをとりながら働くのも苦手。「ずっと独立したいという目標で動き続けた」と言う。反面「今思うと、20歳前後は驚くくらい自分を過信していた」。服飾のデザイン専門学校に通いながらも、直接尊敬するデザイナーに自分のデザインを持ち込み、働きながら修行する立場を得る。その経験をもってアパレルメーカーでデザイナーとして働く。その時も「お金を貯めて独立するため」との思いだった。そして貯まったお金をもってフランスへ渡航。フランスで日本人の服飾関係者の下で働きながらやはり独立するために勉強した。そして帰国後、いよいよ独立に向けて動き出す。昼間は知り合いのパタンナーの事務所で働きながら、夜に自分のブランドを売り込むための展示会サンプル作りなどに勤しむ。そんな挑戦を2年間、東京で続けた。しかしなかなか自分の思うように上手く評価は得られない。「展示会出展のための資金も尽き、借金をしてまで続けようと思わなかった。」

「美しさ」と「自分らしい働き方」を求めて農業へ

 

その頃、以前から漠然と気になっていた農業について関心が強くなった。「自分は農業でも、その農業を含めた暮らしに一番魅力を感じた。」農業と言う仕事を通じて、生産をして経済を回すことはもちろん、仕事と生活が密接に繋がり、周囲の自然、環境の中で持続的、継続的な循環が保たれる。そこには憲治さんの一番のこだわりの「美しさ」があった。そして自営業である限り、仕事は自分でデザインできる。憲治さんの中で農業への世界へ飛び込むのに迷いはなかった。「自分が望んだ価値がある世界へ挑戦できる。ワクワクが強くて不安はそんなになかった」と言う。2年の研修を受け、就農スタイルを「平飼い養鶏」と決めた憲治さん。研修終了、いよいよ独立へ動き出す。38歳の時だった。

難航する土地探しから運命の出会い、就農へ

 

養鶏は畜産業である。騒音・においなどの理由で鶏舎を建てられる場所は民家からある程度離れている。それでいてある程度自分の家は近い方が便利だ。実家の水戸から徐々に就農場所を探し始めたが、就農場所探しは難航した。「基本的には役所をあたって就農場所を探したが、思い描くような場所は全くと言って出てこなかった」。そんな中、一つ目の運命の出会いが訪れる。土地探しをしながら以前から興味のあったパーマカルチャー講座に参加した時に出会ったのが、後に妻となる康子さん。その出会いがきっかけで意気投合し、一年もしないうちに結婚となる。そして難航していた土地探しも常陸大宮市に相談に来た時に歯車が動き出す。相談にのってくれた農業委員会のOさんが紹介してくれた家と土地がまさしく理想のそれだった。トントン拍子に話が進み、家を購入し移住。紹介してくれたOさんはご近所さんだった。運命の出会いはOさんと言うべきか、家土地と言うべきか。

購入した家に引越し、修繕をしながら鶏舎の建築。ご近所さんも好意的。もともと林業の盛んだった地区という事もあり、材木などを格安で分けてもらえたし、鶏舎の建築を無償で手伝ってくれた人もいた。重機などを持たない新規就農者が半年で3棟の鶏舎を作ることができた。「移住に関しては本当に人に恵まれたし、有難い事だった」

順調な滑り出し、そして「1億円の価値」を手に・・・

 

インタビューした筆者としては「新規就農者だから最初は苦労したに違いない。そのあたりを詳しく紹介したい」との思いがあったが、「最初から特に苦労したとかはなかった」という。とは言え、筆者からすると最初の売り上げの話を聞くと、焦ってしまいそうな金額なのだが、きっと憲治さんは「足るを知る」タイプなんだろうと。その後は順調に売り上げが伸び、就農3年目には加工所建設、プリン販売も開始。現在は3人の子供にも恵まれ、家も大幅リフォームされ、古民家の作りをベースにしたカフェのようなお洒落な家になっている。就農当初から、若いころから追い求めた「美しさ」と「自分らしい働き方」のある暮らしを手に入れたようだ。「自分らしく働けることで気持ちがとても開放的に毎日が過ごせる。これは1億円の価値があると本気で思っている。そして子供も育てられて、贅沢ではないけど生活も出来る。これ以上稼ぐ必要もないと思っている。現状維持ができれば。」と語る。一方で「現状維持するためには、一生懸命、そして新しいことにも挑戦しなくてはいけない」とも語る宮永さんは、移住・起業で作り上げた今の生活に対する自信に満ちた表情のように思えた。


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